子どもの頃に本格的な音楽教育を受けていたわけでも、音大出身でもなく、ふつうの事務仕事をフルタイムでしていた20代後半のときに、音楽の素養もないまま 趣味としてアコーディオンを始めた私が、今こうしてアコーディオンを通しての多くの出会いを楽しんでいます。
一方では、編曲や転調が容易にできたり、他の人の演奏に伴奏やアドリブを加えたり、個々の素晴らしい表現力を遺憾なく発揮して、アコーディオン(以下、アコ)で より素敵な演奏をしている人たちをみると、それらが全く出来ない私は “ああいうふうに弾けたら、どんなに楽しいだろうなぁ!”とも感じます。
ですが、単純な私は、羨ましく思いながらも 悲観的になっているわけではなく(!)、そういうことは大半の人にとっては難しいことだよなぁ…とも思っているので、「この人たちは凄いなぁ!」と 聴くことで楽しみ、
そして、むしろ、私にはそうした特別な才能や音楽の素養を持ち合わせていないにも関わらず、人前で演奏する機会やレッスンを担当させていただけたりしていることに、ありがたく感じています。
そこで、ふと・・・
どうしてこのような私が、現在のようにアコレッスンを担当させていただけたり、ときどき演奏する機会をいただけているのだろうかと思い、自分自身の弾き方を思い返すと…、
弾き方としては、自分が生徒としてレッスンを受けているときに習った奏法を組み合わせて弾いているだけで、しかも この奏法は、実際に習いながら理解して練習を重ねていけば、音楽経験も年齢も関係なく、誰でもできる奏法でした。
これが、今回の記事タイトルの「型(カタチ)」と大きくかかわっていたので、今回はこのことについて書いてみます。
型〈カタチ〉で学ぶということ
私の弾き方(奏法)は、リズムや“型(カタチ)” を主軸に“奏法が体系化”された「ヒラヤマ奏法」が ベースになっています。
このように “型(カタチ)” で進められるというのは、アコの魅力を より楽しむ方法のひとつとしても、また、楽器経験や音楽の素養、年齢などに関係なく、全く初めての人が弾けるようになる手段としても、とても有効であるように感じています。
ですが、この奏法が全てだとは思っていません。人によって合う・合わないは あるでしょうし、実際に「型(カタチ)」で弾くことに違和感を覚えるという声は聞いたことは何度もあり、その感覚もなんとなく分かる部分もあります。
ただ、私にとっては、アコをはじめたときに 偶然 出会ったこの奏法が合っていたので、どうして自分に合っていたのかを考えてみたところ、「型(カタチ)」で捉えることについてのメリットなどにも繋がりそうでしたので、このまま書き進めていきます。
自分の経験と重ねて、「型(カタチ)」について
このように “型”を主軸とするレッスン(奏法)を 私が比較的すんなり受け入れられたのは、アコを始める以前の、アコとは全く関係のない “自分のそれまでの経験”と、思いがけずいろいろ繋がったからでした。
その経験というのは、主に次の3つです。
- 子どもの頃の習いごとでの経験(クラシックバレエや お習字など)
- 大学時代の学部の勉強での経験(論文や説の組み立て方)
- 日本語教師の仕事での経験(日本語文法自体や 教授法)
このあたりについては、私個人の経験話で余計な内容も多く含まれるかもしれず少し長くなるので、この記事の最後に書きます(リンク先からこの記事の最後に進めます)。
当時は気にしていませんでしたが 振り返ってみると、これらに共通していたのは、すべてそれぞれ「型〈カタチ〉」があったということ。
型〈カタチ〉だけでもちゃんとできれば、それこそ一応 “形になり”、また、それを深堀していくと それぞれさらに様々な角度で応用がききます。また、型は 窮屈に見える場合もありますが、そうとも限りません。
無意識だったとはいえ 私にはこのような経験があったので、ヒラヤマ奏法の特徴でもある「型〈カタチ〉」で習得していくことに対して、ときに客観的になるのを忘れないよう意識しつつ その内容に専念でき、私自身においてはそれが良かったと思っています。
型〈カタチ〉で進めることの良いところ
型〈カタチ〉で取り組むことの良いところを挙げてみると、次のようなことが思い付きます。
- ① だれでもできる(それまでの経験や年齢などは関係ない)
- ② 応用がきく
- ③ 帰る場所にすることができる
- ④ 人に伝えていける
それぞれについて書いてみます。
① だれでもできる(それまでの経験や年齢などは関係ない)
思い返すと、先ほど例に挙げた私自身の経験は、どれも全く初めての0(ゼロ)の状態からスタートしたものでした。
つまり それは、経験等に関係なく、型〈カタチ〉というのは「だれでもできる」ということで、
話を戻すと、上記の記事のように「型(カタチ)」が軸になっているこの奏法は、ひとつひとつ進めていけば、感性や素養などに関係なく、だれでも習得できる方法や手段のひとつになっているということになります。
音楽や楽器というと、“気持ちや感性が大事で、それを出せば良い!” と感覚にフォーカスすることも多く、そうした表現ができる音楽は本当に素晴らしいと思いますが、そのような演奏ができる人は 実は一部で(特に全く0(ゼロ)の状態から始めた人は尚更)少ないような気もします…。
(極端な例ですが、例えば、ダンスで「音楽に身を任せて体を動かせば大丈夫!」とか、絵で「この風景を自分が見えるまま自由にキャンバスに描いてみたら良いよ!」と言われているのと同じようことのように感じます。。私は普通に出来ず…^^;)
一方で、型〈カタチ〉は、感覚ではなく形式に近いと思うので、教わればだれでもできるものかと思います。
真似
少し話が逸れるかもしれませんが、“学ぶ=真似ぶ”と言いますが、真似にもいくつか種類があるような気がします。
たとえば、「カタチ」の真似と、「感覚」の真似。前者は客観的な要素が、後者は主観的な要素が多く、だれでもできる真似と そうとも限らない真似があるように感じます。
つまり、後者の ”感覚”は 個々人で違うので、たとえ自分なりに汲み取るといっても、その感覚や好みがかなり似ているか、もしくは、真似する側にもその感性についていけたりそれを受け止められる技量や素養を持ち合わせていないと難しい場合も多く、実はできる人は限られるようにも感じます。(先ほど例に挙げた、絵やダンスのような音楽以外のコトに置き換えると分かりやすいかなとも思います、、) 真似される対象者が「感覚」で弾いている部分は特に。。
一方で、前者の “カタチ” は、感覚とも異なり客観的な要素が主なので、だれでもでき、また、汎用性や再現性もあるように思います。
活動に繋げられる楽器/生活のなかに馴染む楽器
楽器で活動するというと、子どもの頃から音楽を学び、感性や素養が必要という印象ですが、アコはそうでなくても十分活動できる楽器だと思います。実際に私も後者です。
そもそもアコ自体がそのような構造(特に左は音楽理論を知らなくても伴奏を弾ける構造!)ですし、こうした点も、私がアコは素晴らしいなぁと、アコを始めて良かったなぁと感じる一面でもあります。
もちろん、趣味として楽しめるという一点で十分に素晴らしいことなので、すべてを活動に繋げるべきというわけではありませんが、もし活動できるくらいに弾けたら 趣味としても より一層 楽しくなりますし、また、だれでも各々に合う活動に繋げられる楽器であるということは 興味深いと思います。
実際、この奏法を使って演奏活動をしている人たちが私の周りにはたくさんいます。
私が生徒として通っている教室(平山教室)に通っている方々がそうなのですが、活動の場は様々で、仕事としてレストランなどで演奏する方、サロンやホールで独奏演奏会を開く方やプロの大道芸人の方や、プロでなくとも ちゃんと弾けるようになった童謡や唱歌などの数曲を使って、毎月施設での演奏やボランティア演奏をされる方々がいます。
皆さん各々のペースで生活の中にアコーディオンを取り入れて生き生きとされ、アコを さらに楽しんでいらっしゃるようにお見受けしています!
いつから始めても、自身も周りの人も楽しませられて、日常生活に自然に溶け込める素敵な楽器だなぁと改めて感じます。
② 応用がきく
ひとつ自分なりの軸や基本があると、応用が利きます。
これは、私自身の今までのアコとは全く異なる経験からもそう思います。
また、そこの例でも触れたように、崩してみる場合も、基本や軸があるからこそ 崩すことができますし、
少し違う見方になるかもしれませんが、型でやっていくなかで もし違うと思ったときには、まずはその真逆をしてみたり、一つずつ崩してみるという方法等も取りやすく、いろいろ試しやすくなる場合もあるかなと思います。
なお、型でやると 個性がなくなると思われる傾向にありますが、個性はそんなに弱いものでもなく、型を意識していても 良い意味でそれぞれの個性は出てきてしまうものと個人的には考えています。
うまく言葉にできませんが、何も知らない分からないところで「自由」というのは逆に難しく、型があるから自由があり、比較もでき、自由(応用)のために型があるのかなと思います。
③ 帰る場所にすることができる
型や奏法があると、自身の拠り所や支え(帰ってくる場所)にすることもできると感じています。これは2通りあります。
先ほどからそうですが、これもヒラヤマ奏法のことだけを言っているのではなく、今までの個人的なアコ以外での経験も踏まえて、「型」について私が思うことを書いています。
この項目では特にそれを、アコに当てはめて書いています(ヒラヤマ奏法は「型(カタチ)」が主軸なので、このようにしやすいんです)。
1.演奏中
演奏時の本番などで、緊張してどうにもならなくなってしまったときなどに、とりあえず これ(型や奏法)に集中すれば大丈夫だという支え、安心材料になります。
2.弾き方自体
ヒラヤマ奏法は 私自身には合っていますが、たびたび書いているように、この弾き方が全てではないとも思っているので、もしかしたら(!?) これから長くアコを親しんでゆくなかで、今とは異なる弾き方を試みて進んでいくこともあるかもしれません。もしも そうなった場合は、その先で 迷ったり どうしたらよいか全く分からなくなったりすることもあるかもしれません。。
ですが、そのようになったら、この奏法に帰ってくればよいのかなと思っています。
帰ってくる場所(奏法=カタチ)があると、いろいろ試したくなったときなどにも、安心して、思い切って寄り道したりできそうです!
唐突で少し話が逸れるかもしれませんが、、
私自身、曲の中の とある一部分などにヒラヤマ奏法を使うと違和感を感じる部分も たま~に あります(私自身がそのように感じる箇所は、自分が弾くときや 担当クラスのレッスンのときは、奏法に頑なに拘ることはしません)。
このような視点も大事だと考えているので、昔から そういうときはメモしておいて ときどき見返したり、また、いろいろな教室の発表会を見に行ったり 他の教室の方々との会話するなかでも 気付いたときにはそのことを忘れないよう意識しています。
ただ、そのように感じた場合も、私自身の個人的な練習や (私が生徒として出演する)教室発表会では、ほぼほぼ、奏法の方に振りきってみています。
というのは、練習などで完全に奏法に注力してやっていくと、その奏法の別の意図が分かったり、発見がある場合も 少なからずあるからです。また、いろいろな引き出しを増やすためにも必要なことのようにも思います。
④ 伝えていける
以前の記事にも書きましたが、カタチは人に伝えていくことができます。
これは、アコーディオンの普及の手段の1つにもなることにも繋がります。
上記の記事や、今回の記事の「①だれでもできる」の内容と重複する部分でもあるので、ここでは割愛します。
ひとこと
型の捉え方や音楽に限らず、どんなことでも本質は同じなのかなぁと考えています。それは アコやアコ以外での今までの経験から感じることです。
私はアコを始めたときに楽しくて楽しくて、ワクワクしながらいろいろ考えながらアコに触れていたら、アコとは全く関係のないそれまでの経験が繋がってきて、私にとってはアコがさらに興味深く面白い楽器になりました。
なお、私の文章が稚拙で、もしかすると、今回の記事では 型と感覚の善し悪し等を書いているように見えてしまった箇所があるかもしれませんが、、そのような意図はありません!
先にも少し書いたように、音楽の素養や楽器経験があって更にご自身の伝えたいことや感情をそのままアコの音色で表現できる方は、心から凄いと思っていて、そういう音楽を聴くのも私は大好きです。かと言って、そのような素養を持ち合わせていない自分自身に悲観的になっているでもなく、それならば そのような私自身ができることは どんなことかなぁと考えて楽しんだりしています。
いろいろな弾き方や価値観があって興味深く、アコーディオンは本当に素敵な楽器だなぁ!と、改めて感じています。
補足(上記記事『2. 自分の経験と重ねて「型」について』の補足)
以下、今回の記事の 2.『自分の経験と重ねて、「型」について』で省略した部分です。
これまでの自身の経験例を単純につらつらと書いていきます。
▶ 子どもの頃の習いごとでの経験(バレエや お習字など)
※全部、ド素人の私なりの見方です!
習いごとと言っても、当時の私にとっての習い事は「ふだん遊ぶ近所の友達や同じクラスの子とはまた”別の友達”に会いに遊びに行く」という感覚でした! ですので、以下はド素人の個人的な視点であり、私の理解が誤っている部分もあるかもしれません。ご了承ください。
●『クラシックバレエ』
クラシックバレエというと綺麗な衣装を着て、演目を華やかに芸術的に踊るイメージかと思いますが、普段のレッスンは、レッスン時間の半分以上は バーに捕まっておこなう “バーレッスン” に費やされ、これは各ポジション(カタチ)の練習です。その後に バーから離れて中央で踊る ”センターレッスン” へと続きますが、ここでも毎回同じことをします。これはプロでも同じようです。
なお、発表会の練習期間中も、本番間近になるまで、バーレッスンに費やす時間は変わりませんでした。つまり、レッスン内容も流れも、躍りの根幹も、カタチが決まっています。
また、クラシックバレエは、殆どのダンスの基礎にもなります。私は興味本位でジャズダンスなどの他のダンスもほんの少しだけ習ったことがありますが、そのときも踊りの基礎となるクラシックバレエをしていたおかげで、比較的スムーズにかたちをそれなりに真似できました。
そして、これは経験でなく、聞いた話になってしまいますが、「コンテンポラリーダンス(日本語:現代舞踊・自由なダンス)」を習う場合も、さまざまなダンスの基礎となるクラシックバレエを習うことを勧められることも多いそうです。
それは、基礎を少しずつ変化させていくことで、コンテ=新しい踊りに繋がってゆくからだそうで。そもそも もとの基礎ができていないと崩したり自由に踊ったりするのは難しいということのようです。
●『お習字』
教室の大人の生徒の方が「行書」で書いているのを見て、当時 小学生だった私は、単純に「カッコイイ!書いてみたい!」と思っていましたが、なかなかやらせてもらえませんでした。
当時はその理由が分かりませんでしたが、「楷書」が基本となるので、そもそもそれが分かっていなければ「崩す」こともできない(基礎が分かっていない状態で書いても、ただただ滅茶苦茶になる)ので、当然のことでした。
▶大学時代の経験(学部は、音楽や芸術とは、1ミリも関係ない学部です!)
在学中の学部での各試験は全て「論文」でしたが、論文の書くための考え方や書き方などにも、その学部・学問ならではの 形式などがありました。
▶ 日本語教師の仕事での経験(大学時代の学部とも、全く異なります)
(実は外国人に日本語で日本語を教える「日本語教師」の職歴があり、、今も有効かは不明ですが、一応、日本語教師の資格を持っています。。)
ふだん私たちが無意識に使っている「日本語」自体にも、他言語のように、分かりやすい文法(カタチ)形式があります。
また私が当時 勤務していた日本語学校には、教え方や授業の進め方にも「型」があり、在学生がよりスムーズに学べるよう全教師でそれは統一されてました。(決して怪しい学校ではなく(笑!)、業界内では大手の 都心にある日本語学校でした。実際、この教え方は学習者に定評があったため、ここの教師は同業他社や海外へ転職しても、ひきつづきこのかたちで授業されているようでした。)
日本語教師の経験は、今回の記事以外にも、繋がることが結構ありそうなので、また別の機会に書く予定です。
※ 補足は以上です。もとの記事に戻るには コチラ から
>> 2.『自分の経験と重ねて「型」について』
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